岡 秀樹 - COWORKING EVANGELIST BLOG -

【談話】なぜコワーキングカンファレンスジャパンを企画したのか?

【談話】なぜコワーキングカンファレンスジャパンを企画したのか?

コワーキングは日本の社会を変える力がある

私はコワーキングこそ日本の社会を変えると思っている。秘密基地を作ってまる5年となるが、微力ながらそのインパクトの一端を証明できつつあるのではないかと思っている。私が創出した社会インパクトについてはまた別途にご紹介するとして、私がなぜコワーキングこそ日本の社会を変えることができると考えているのかを綴りたいと思う。最も重要なポイントとして、コワーキングスペースは、利用者である個人個人の文脈を捉えながら、互いに繋ぎ、さらなる価値を紡ぎ出すことに意味を見出している点にある。これは、人の間の出来事であり、すなわち個々の関係性及びそれが広がった先にある社会の関係性そのものを扱っていることに他ならない。それは、日本が図らずも受け入れた、西洋を発端とする近代的な世界観とその苦悩を一掃する力を持っている。

コワーキングの本当のインパクトを理解したいなら、近代を理解する必要がある

近代を理解するのは、日本人にとって非常に難しい。なぜ難しいのかと言えば、ひとつは近代を生んだ西洋の息吹を感じることができないほど遠く離れていること。もう一つは、輸入してきたものでありながらも既に日本の社会通念に取り込まれてしまっていることにある。だが、読み取る方法はある。最もシンプルな方法は、ルーツである近代以前の西洋の文脈から見ることだ。近代の生みの親は、ヨーロッパであり、その集大成としての米国の歴史に目を向けるとその意味が見えてくる。

近代とは一体どんな時代だったのか?

近代というのはどんな時代だったのか。それは、前時代から見るとよくわかる。特に2つの点において大きく変化した。まずは社会の主人公が王や貴族から民衆(個人)に変わったこと。そしてもう一つは「抽象的な私」が社会に流通したことだ。
かつて社会の主人公は、王や貴族のみであった。現代においても発展途上国にはあることだが、人として認められているのは、必ずしも全員とは限らない。(これから先の社会においても、それは同様におこる。例えばロボットは、当然人としてはカウントされていないのであるが、社会において役割を担う頃には、人ではないせよ、何者かとして、ひょっとしたらカウントされる対象となることは、十分にあり得ることだ。)近代以前の社会の主人公は、王や貴族であり、文化や歴史は彼らを中心に動いた。その王と貴族の首を切りおとしたフランス革命は、近代の始まりを伝える象徴的な出来事であり、重要な儀式であったと言えるだろう。
もう一つの重要な出来事、それは「抽象的な私」の流通である。芸術活動における20世紀最大の発明は、抽象芸術であると言われている。例えば、ピカソなど、女性のモチーフでありながら、もはや人間とさえもわからない極端にデフォルメした人物画など、特徴的な絵画を見たことがあるだろう。これら抽象芸術は、芸術家が対象に向き合い、芸術家の思うがまま、好き勝手に抽出するというものであるが、このようなスタイルを抽象芸術という。このような芸術のあり方は、前の時代にはなかった。かつて芸術といえば、王や貴族が認めたものだけが芸術であって、一芸術家の視点が、芸術として認められることなどなかった。まずは人間として個人が社会に認められいる必要があり、そして初めて、好き勝手に抽出するという視点の芸術は成立したのである。すなわち個人がはじめて力を持った時代。それが近代であった。
そしてもう一つの「抽象的な私」が流通した事実。それは特に近代の後半に見られる。社会は文明の利器を取り入れ、機械化することによって発展するようになった頃、様々な仕事が分業され、人間が本来持つ人間性よりも、機械に合わせて働けるかどうかが重要視されるようになった。それにより教育も変わった。例えば日本の近代的な教育は、1872年に始まり、翌年には徴兵制度が始まっている。第二次大戦後にも残る近代的な教育の本質は、軍隊というゴールはなくなったものの、ルールやタイミングを逸脱しない文明社会への適合を目的としたものであり、そのための教育であったと言える。必要とされたのは、人間が持つ本来の人格よりも、近代のルールに合わせることであり、その適応能力こそが評価軸であった。今となっては、それらの適応能力は、私の価値の一部であるとも言えるが、その当時は本来的な価値として評価された。つまり、ルールに従う私の部分(すなわち抽象化された私)だけが最も重要視された時代であり、人間らしく生きることが難しい時代であったと言える。

なぜ近代の芸術家たちは自殺するのか?

近代が生み出した、生きにくさを表すもう一つの真実。それは近代に入って、多くの芸術家が自殺するようになったことだ。日本においても、太宰治など、多くの小説家たちが自殺をしている。しかし、それ以前の社会において芸術家はあまり自殺することはなかったと言われている。なぜ近代に入り、突如、芸術家たちは自殺するようになったのか?それは、近代特有の仕組みにその理由がある。近代以前の芸術家は良い作品を生み出せなくてもこのように考えた。芸術は、神が私にヒントを与え作らせるものである。画家であれば、あくまで神の思いが私に描かせるのであって、良い作品を描けないということは、単に神がそれを必要としていないからだ、というロジックである。しかし近代以降はそうはいかない。なぜなら、近代以降において「私」こそが主人公であり、世界の中心だからだ。私が良い作品を描けないのは、私が悪いから以外になく、他ならず私の責任であり、生きる価値など感じられず、死ぬしかなくなるというわけだ。
このような個が主人公となる世界観の登場は、1600年代のヨーロッパに遡る。近代哲学者のデカルトは「われ思うゆえにわれ有り」という言葉を残した。この意味は「私が思うから世界がある」ということに他ならない。現代の文脈では、当たり前のようにも思えるだろうが、近代以前の文脈から考えれば、その違いが鮮明に理解できる。すなわち、近代以前の世界においては、「私」は単に神が作らせた造形物すぎない。それゆえすべての責任は神にあるため、自殺する必要はない。一方、近代以降においては「われ思うゆえにわれ有り」すなわち、「私」こそが世界の中心であり、全ての責任者である。だから、いい作品を描けない芸術家たちは、生きている価値を感じることができなくなるのだ。この「私」の設定こそ、近代特有であり、病の元凶である。この「私」が座っているポジションは、かつて神が座っていたポジションに他ならない。つまり、「私」が主人公の座を得て、神や王や貴族に代わった時、この病を背負ったのだ。
ニーチェやウィトゲンシュタイン、アドラーなど、近代の後半に生きた多くの哲学者たちが扱うテーマのほとんどは、この近代という時代が生み出した、生きにくさについてである。日本人はこの経緯をあまり知らない。地政学的な理由と、武力による外圧によって、図らずもこの根深い「近代」化を受け入れることになったため、日本人はその当初から近代を理解する間もなく、かつ現在まで消化しきれずにきている。

新しい時代の始まり

近代とはすなわち「私」が世界の中心に座っている世界観であり、それぞれの「個」が世界の中心であるとした時代と言える。だがゆえにその個人の外側にある「社会」のあり方を十分に議論して成立させなければ、ぶつかり合ってしまうほかない。この世界観で国を作り、成長してきたのがアメリカである。アメリカ人の言うIndependent day(独立)とは、国家の独立のみのではなく、旧社会の主人公、すなわち王や貴族たちからのIndependentでもある。そのアメリカをして、社会とは何かと問えば、個人と個人が作り上げるものだと答えるだろう。通常、個と個は何もしなければぶつかるものだ。そのため、社会への理解が重要になる。この議論はアメリカこそ最も体験していると言える。アメリカにおいて銃がなくならない理由もここにある。それは最も重要な主人公である個を守るためであり、近代憲法とはすなわち、個を守るための憲法に他ならない。しかし同時にその積み上げてきた知見から、アメリカの上流階級において最も重要視されるのは、社会性である。そのため、若いころよりボランティア活動に参加することが評価されるようになっている。個がいかに社会に向き合うか、アメリカはそのことに対する知見を最も有している国家と言える。個とコミュニティ、個と社会に対する哲学無くしては成立しない。コワーキングの概念がアメリカで生まれたとするのは運命的でもある。

日本人の精神とコワーキングスペース

ところで、西洋人が日本のあり方に憧れる例も多い。スティーブジョブスは禅にあこがれた人物の一人だ。禅はその最高の境地を「空」に据える。この「空」とは、何を実現しようとしているのかといえば、それは「滅私」である。禅、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗なども大乗仏教というジャンルであり、これらは総じて「滅私」を目指す。滅私とは私が苦しみの元凶であるということから生まれたものであり、西洋的近代主義のもたらす苦悩を解決する圧倒的ソリューションとなっている。松尾芭蕉は、禅の影響を受けた人物だ。彼が残した「蛙飛び込む水の音」という俳句においては、一見主語が見当たらない。蛙が主語に見えるがそうではない。なぜなら、水の音を最後に聞くもうひとりの誰かがこの空間に存在しているからだ。本当の主語はこの誰かである。このような主語の表現方法こそ、禅的=滅私的世界観であり、日本人はこのような形で主体を表現することに長けている。主語として明確に存在させるのではなく、にじみ出るような形で存在させる。このような主体の存在の仕方に多くのアメリカ人やヨーロッパ人が憧れる。ただし、彼らが憧れているのは「私」のコントロールという文脈についてである。あくまで「私」が主人公である。私はこう考える。アメリカ人が禅を学ぶように、私たち日本人は、近代を学ばねばならない。日本にはどこにでもお寺があり、滅私の世界観を体験でき、もはや十分に慣れ親しんでいるのではないだろうかとも思える。だが今、グローバル社会という文脈の中では、日本人は得意な滅私ではなく、西洋が近代を生み出した過程と、それをして苦悩に至ったまでの過程をむしろ学ばなければならない。直線は2つの点があってはじめて描くことができる。私たちがどこからやってきたのかを抜きに、未来を語ることなどできない。グローバル社会をけん引する欧米を中心に、近代とは歴史的に外せない重要な出来事であり、いわば血と汗と涙で勝ち得たものである。ゆえに「私」はそう簡単に消せるものではない。日本人はここをよく理解せねばならない。今こそ、自分たちのもつ強みと弱み、そしてグローバル社会へつながる近代からの歴史について、もう一度注目しなければならない。

コワーキングスペースのミッション

近代的思考とは、すべてが個を中心に動き、全てが個に帰結する。世界の中心が「私」にある。しかし、コワーキングは、個と個の間に価値を見出す。私自身、コワーキングスペースにおいて、人々が繋がることで、個人個人の力を超えた、素晴らしい結果を生み出す瞬間を何度も目にしてきた。コワーキングこそ、個と個の間に存在するものに価値を与え、それを最大化するものであり、かつての個に帰結するだけの古き近代的思考を凌駕するものである。コワーキングスペースとはその象徴である。私はコワーキングは、日本固有の和の哲学、すなわち間に立つ哲学に近しいものであり、図らずも飲み込んだ西洋生まれの近代を超える(消化させる)ことができる唯一の手段であろうと考えている。

他人を信じられない日本人の背景

総務省の情報白書2018において「あなたは他人を信じられますか?」という質問に対し、日本人の約30%が「自分は他人を信じられる」と答えた。逆に言えば、70%の人が他人を信じられないと考えているわけだが、同じ質問をアメリカ、イギリス、ドイツ人に聞いたところ、全く逆の結果が出た。70%の人が他人を信じられる、と答えたのだ。3国いずれも早くから移民を受け入れている国家であるにもかかわらずである。そして、続いての質問で、自分に他人を信じる能力があるかと聞いたところ、この3か国においては「自分にその能力がある」と答えている。確かに、他人を信じることができるというのは能力である。この問題の背景にあるものは、主体的に判断しているかそうでないかだ。3か国にとって、社会とは自分から働きかけていくものだと考えている。最初からそこにあるものでも、誰かが作ったものでもない。自らの力で働きかけていく他はないと考えているのだ。日本人の社会性は、まるで近代以前の主体性なき時代の精神と、近代以降におこる相容れない個人どうしの断絶間に喘いでいる。本当の近代とは、個人が主体性を持つことが許され、自らが判断をするということを保証するものだ。社会とは、既存であるものでも、誰かが作ったものでもない。今ここで創られているのだ。

なぜコワーキングカンファレンスを企画したのか?

近代は個人主義の生みの親であり、個人の自己実現を至上命題とする。それゆえ、他人を信じることをも難しくもする。自己実現は、共同体、コミュニティ、社会といったものとのバランスの中で語られるのであれば良いが、日本において、そこは語られることが少ない。日本の企業風土においても同様だ。世に有益な情報を出せば、奪われるのではないかと猜疑心がよぎり、特許をひたすら溜め込む企業が多い。現在、日本には、日本人以外の作ったサービスが拡がりを見せているが、そこにはアメリカの資本が流れ、次世代の新しい企業、新しいサービスを育てている背景がある。日本の大企業はこのような、企業を育てることに対し足踏みをする。時にアメリカに学ぶことも大事だが、長期的なあり方や、哲学だけは自前で持つべきだろう。一般家庭においても同様である。子育てで不安があっても誰にも相談をせずに命を絶つ人も多い。これらは全て、近代特有の病である。日本人は思いのほか、社会的に繋がることの大切さを理解していない。いや忘れてしまったのかもしれない。
だが、希望もある。コワーキングスペースは、人々を繋ぎ、新しいものを生み出す力にあふれている。いまの日本に必要とされている姿がここにある。個人という小さな枠にとらわれず、協業的に成長させようとする世界観がある。コワーキングスペースで行われている様々なチャレンジの数々。そしてこの時代に寄与するコワーキング関係者たち。私は彼らを讃え、応援する必要があると感じている。なぜならば、コワーキングが創りえる未来こそ、次世代日本の礎となりえるからだ。私は様々な困難に立ち向かうコワーキングスペースをもっと世の中に知ってほしいと思っている。困難を立ち向かう人々を応援せずして、未来を創る人々に賭けずして、私たちが生きる意味がどこにあるだろう?この瞬間、この時代に居合わせた仲間たちに伝えたい。さぁ!もう近代は終わったのだ。個人の世界観でやれることは限界がある。そのことに気づけ。いまこそ、協創の時代。その価値を、繋がることの意味をシェアするべきだ。そして次の新しい日本を共に創ろう! Lets do coworking!!


1901年、北九州は、八幡製鐵所の開設をもって工業都市をスタートしました。20世紀に始まった代表的な近代都市です。英語で近代のことを「モダン」と言い、近代の世界観を「モダニズム」といいます。1970年代、欧州においても、近代主義を終わらせるべきだということで、新たな哲学が生まれました。ポストモダニズムの登場です。ミッシェルフーコー、ジルドゥルーズ、ジャックデリダなどです。その彼らから影響を受けた日本の建築家がいました。磯崎新という人です。彼が設計した建築物が北九州にあります。その建築物こそ、今回コワーキングカンファレンスジャパンが行われる会場、北九州国際会議場です。

佐々木紀彦さん
佐々木俊尚さん